OLD PHOTOS of JAPAN, 日本の古写真:明治、大正、昭和、古い写真を通して「日本」を知るフォトブログ

Old Photos of Japan
1860年代から1930年代の日本の写真を紹介しています。1854年、日本は200年以上続いた鎖国を解き、それは真に驚くべき変化の引き金となりました。ちょうどその頃、まるで運命かのように、写真が発明されました。古い日本が消え、新しい日本が生まれるにつれ、挑戦心ある写真家たちが写真を撮りました。貴重で珍しいこれらの写真から、古い日本の当時の暮らしを見ることができます。
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1900年代の東京 • 吉原の大門

この大門は東京の歓楽街吉原の正門。吉原が最初にできたのは1617年で、日本橋近くにあった。17世紀の後半になって、市内から浅草の近くに移された。全体が濠に囲まれていて、門番のいる大門だけがその入り口だった。元々この門は木で作られ冠木門と呼ばれる形で、横棒があった。1881年(明治14年)の春に鋳鉄製の門に作り変えられ、柱の上にはガス灯がついていたが、つながっていなかった。その後柱は弁天の像のついたアーチでつながった。

この門は、有名な劇作家で教育者だった福地源一郎(1841~1906)が漢詩で「春夢正濃満街桜雲。秋信先通両行灯影。」と詠っている。1

この漢詩は一行に四文字ずつの四行で構成され、吉原で人気のあった二つの習慣を詠ったもの。

春には本通りである中野町の中央に沿って桜の木が植えられた。何千もの彩色した灯篭と点滅する電燈が薄紅色の花と豪華な衣装に身を包んだ女性達を照らす夜になると、幻想的な夢の世界の一場面のように見えたに違いない。

秋を告げるのは、中野町の茶屋ごとにその前に吊り下げられた灯籠だった。これは旧暦で一年に七番目の月(今の暦では8月に当る。)に行なわれた。灯籠の間に飾ってある造花の中には、名の知られた画家の作品を取り上げたものもあった。当時ここを訪れた人々は、これらの照明が信じられない程美しかったと語っていた。都会の照明が未だ明るくなかったこの時代、秋の灯籠に照らされた吉原は、将に魔法のように見えたに違いない。2

1899年に出版された「The Nightless City or the History of the Yoshiwara Yukwaku」には、この習慣について詳しい記述があり、その歴史が書かれている。

現在毎年八月になると、有名な画家の筆になる絵を描いた大きな灯籠が吉原の中心である中野町にあるのが見られるが、これは人々を惹きつけるためである、これは看板のようなものだが、回転式やその他のタイプで、様々な形や意匠の灯籠が茶店の前に吊るされて、毎晩灯が点る。

このような状況で大勢の人々が、この見事な見世物を見るために吉原に押し寄せる。女性も例外ではない。そして多くの放蕩者が、灯籠を理由にここで金を費やすが、これら灯籠の目的といえば、放蕩者の目を覚まさせて導くのではなく、目を眩ませて理性を麻痺させることだけのようだ。

灯籠の一般的なスタイルだが、縦に長く幅が狭く、黒い漆塗りの枠に絹を展ばして貼って作る。これを支えるのは、1組の杉の棒で、屋根は市松障子で覆われている。

店毎に1組の灯篭があり、その一つは道路に面しもう一つは屋内に面している。だからどちらからでも見えるので、古くから言われている、「灯篭は裏から見る。俄は前から見る。」というのは此処では当て嵌まらない。

ある作家が見聞したところでは、明治20年(1887年)になっても茶屋の前にある灯篭は通りに面しており、よく見えるのは通行人だけで、実際に茶屋の二階に上る客は、これら灯篭の裏を見るしかなかった。だから現在のやり方は、極めて最近始まったもののようだ。

明治10年(1877年)以後、中野町の茶屋は新規のアイディアを思いつき、入り口に白い布をかけて魔法の灯篭のように見せた。しかし、これでは吉原が事実上暗黒の世界になり、客にとっては大変不便になった。

時には茶屋の主人達は、客を惹きつけるための新たな方法を考え出すについて大いに独創性を発揮した。そしてある時は人工の月を幕の上に写し、雲がその上を通るように見せかけた。これらの見世物は、毎年吉原で行なわれる行事の中で注目されるものの一つと見られた。

昔からの習慣では、毎年6月の最後の日から7月の最後の日までの間、盆灯篭を中野町の全ての茶屋が陳列する。しかし現在のように横丁にある小さな遊廓の前に並べられることはなかった。

この陳列は13日目と14日目には中断して、15日目からは二の帰り灯篭と呼ばれる新しい灯篭に変わる。7月のお盆の間、灯篭を点すのは古来から日本全国で見られた習慣で、そこで吉原でも色々な形や大きさの灯篭が使われた。

「吉原大全」によると、或る年の夏に人気の高かった玉菊という遊女が、急に病に罹り暫くは生き延びたが7月の初めに死んだ。

In この遊女の魂を慰めるため、また死者の霊に対する捧げ物として玉菊と親しくしていた各茶屋が戸口の前に切り木灯篭という灯篭を吊るした。この照明はかなり注目を集め、多くの客がやって来て、「商売」がこの年大いに繁昌した。そこで翌年(1716年)には全ての茶店がそれに倣った。3

吉原の大門は、1923年9月1日の関東大震災で、吉原の大部分と共に破壊された。

1 De Becker, J. E. (1899). The Nightless City or the History of the Yoshiwara Yukwaku. Max Nössler & Co: 19

2 上記:20

3 上記:232~234

撮影者: 撮影者未詳
発行元: トンボヤ
メディア: 絵葉書
写真番号 70621-0013

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Posted by • 2008-06-23
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